神岡のこと

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神岡町のページ



2008年3月撮影奥に連なる山が北アルプス。


  神岡に住んで5年。

ここは特別なところだと感じるこの頃。


 神の岡・・・

 鉱山で栄えた都市鉱山。

 鉱山とは鉱物資源が山に眠っている鉱石を採掘して、
 金銀銅鉛などを精錬するところ。(写真中央集落付近の山)

神岡の重みを感じるこの頃なので
人とは違った角度から神岡を探ってみたいと思う。

 まずは鉱山の歴史を見てみよう。




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養老年間    神岡に銅山があったとの記録が残っている   
明応年間    和佐保銀山(後に栃洞)が開坑される。
永禄7年    江馬氏が東町城(現神岡城)を建設
天正       飛騨金山奉公茂住宗貞が和佐保銀山を管轄
延宝年間    和佐保銀山が開坑。以後200年ちかく産銅
文政2年     和佐保銀山が政府御手山となる
         鉱山の悪水によると思われる農業被害の報告
安政2年     幕府が貨幣改鋳のため、高山で銀の精錬開始。
安政5年     和佐保に荒吹所が建設される 
慶応2年     幕府の衰退とともに鉱山産業にも陰りがみえる
明治5年    借金の担保を理由に三井組が鉱山の権利を取得を始める。
明治18年    日本鉱業会誌に「飛騨神岡の鉱山」が良鉱山と紹介される
明治20年10月 神岡の鉱山所有権はすべて三井組のものとなる
明治23年    煙害の住民運動
          精錬所に鉱毒飛散除去室の設置
明治28年    栃洞坑、通洞開通
          綿火薬使用
明治29年    栃洞に私立小学校創立される
明治30年    ペルトン水車原動巻上機、スライス堀、坑内照明といった、さまざまな新技術が取り
           入れられ採堀作業に目覚しい発展が見られる
         一方で金本位制実施による銀価格低下で打撃を受ける
明治34年    片面扉付鉱車登場
明治37年    日露戦争で鉛価格が上昇
明治38年    通風機が坑口に設置される
明治39年    亜鉛鉱の精錬、国外輸出を開始
明治40年    採鉱跡充填空洞堀が始まる
明治45年    主要運搬抗道が完成
          雷管を使った採鉱が始まる
大正10年     イタイイタイ病へとつながると思われる奇病の報告          
坑内電車使用開始
大正14年     立坑260m~0m完成
          照明に電灯を使用開始
昭和10年    栃洞選鉱工場完成
昭和11年    坑内、坑外に電気機関車が導入される
昭和12年    神岡鉱山国防婦人会初会
昭和15年    栃洞選鉱第二工場完成
昭和21年    神岡鉱山労働組合発足
昭和23年    神岡高等鉱山学校設立
昭和25年    神岡鉱業(株)発足
昭和25年    神岡町誕生
昭和27年    三井金属鉱業(株)に名称変更
昭和30年    富山新聞にて初めてイタイイタイ病の記事
昭和31年    神岡町にて全国鉱山所在地市町村連絡会議
昭和32年    イタイイタイ病原因の重金属説(荻野氏)
昭和34年    地圧計、ボーリング技術など最新の技術
昭和36年    イタイイタイ病カドミウム説(荻野、吉岡氏)
昭和37年    栃洞坑、下ノ本坑休山
昭和38年    神岡町危機突破大会
昭和42年    初のイタイイタイ病被害補償要求
昭和43年     厚生省によりイタイイタイ病が「公害病」と認定
昭和46年6月  イタイイタイ病第一次訴訟が富山地裁裁判所にて行われ、三井敗訴
昭和47年    泉平,南平診療所が廃止となる
昭和48年    第1次合理化、組織改編
          緑化運動がはじまる
昭和52年3月   栃洞中学校閉校
昭和52年12月  栃洞保育園完成
昭和53年     第二次合理化 約500人が退職
           特定不況地域に神岡が指定される
           山田中学校、栃洞中学校が統合し神岡中学校となる
昭和54年     通洞,泉平の社宅を廃止,
昭和56年1月   56豪雪
昭和58年3月   町立栃洞小学校閉校
昭和59年7月   東大宇宙線研究所神岡地下観測所観測開始
昭和61年     三井金属鉱業(株)が神岡鉱業(株)に別会社化
           3月栃洞保育園休園
昭和63年     社宅はすべて夕陽ヶ丘,旭ヶ丘へ移転
昭和62年      ニュートリノの観測に成功
平成4年11月    栃洞の前平地区が実質的に無人となる
平成11年      文化庁が産業遺産として調査開始
平成13年     鉱量の枯渇、岩盤状況、品質の悪化を理由に、鉛、鉛鉱石の採掘を中止。
平成15年2月     神岡町は飛騨市に統合
平成19年11月   神岡鉱山地下にデータバックアップ基地構想
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神岡といえばカミオカンデ

東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設です。

東大の小柴教授がニュートリノの質量を観測したことで世界的に認められ
ノーベル物理学賞を受賞したのは有名です。


以下、神岡鉱山の100%親会社である三井金属のホームページより

1983年に完成されたのが、カミオカンデだったのです。
地下1000mという場所に、当時としてはとてつもなく大きな空間が築かれました。
わたしたち三井金属がこれまで培ってきた鉱山技術は
この時、岩盤エンジニアリングとして新たな実績を生むこととなったのです。

http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/more/kouzan04.html
http://www.mitsui-kinzoku.co.jp/more/kouzan02.html

1983年(昭和 58 年) 東京大学宇宙線研究所 カミオカンデ建設
1986年(昭和 61 年) 坑内重機整備工場建設
1989年(平成 元 年) 京都大学 ジオモトグラフィー実験研究
1990年(平成 2 年) 岩盤内圧縮空気貯蔵(CAES)実験
1991年(平成 3 年) 岩盤実験研究施設建設
東京大学宇宙線研究所 スーパーカミオカンデ着工
1992年(平成 4 年) 地下減圧室建設
1993年(平成 5 年) 東京大学模擬高地トレーニング研究
1996年(平成 8 年) 東京大学宇宙線研究所 スーパーカミオカンデ完成
2002年(平成 14 年) 東北大学ニュートリノ科学研究センター カムランド建設



wikipedeiaより
神岡鉱山(かみおかこうざん)は、岐阜県飛騨市(旧吉城郡神岡町)にある亜鉛・鉛・銀鉱山。

奈良時代養老年間(720年ごろ)に採掘が始まり、
明治7年(1874年)に三井組が経営権を取得、
近代化により国内初のトラックレス・マイニング法を取り入れるなど、
大規模採掘を続けていたが、2001年6月に鉱石の採掘を中止した。
三井組経営からの総採掘量は、約130年間で7,500万トンにも達し、
一時は東洋一の鉱山として栄えた。


イタイイタイ病
神岡鉱山の亜鉛鉱石の主要鉱物である閃亜鉛鉱に含まれるカドミウムを原因とする、
富山県神通川流域で発生した大規模な公害である。
この公害により最も大きく発生した被害は、
布団をかぶせただけで骨折し「痛い、痛い(いたい、いたい)」と叫んでしまう
「イタイイタイ病」と呼ばれる公害病である。
患者が神岡鉱山を操業していた三井金属鉱業株式会社(当時)を相手取り集団提訴し、
1971年富山地裁で患者被告が勝訴、名古屋高裁でも勝訴した。
日本の四大公害病裁判において、最初の原告勝訴判決で
その後の公害病裁判に大きな影響を与えた。

補足
16世紀から採掘が始まった神岡鉱山は、1874年以降、
三井財閥の手で近代的な鉱山として生まれ変わり、
国内では不足がちな亜鉛・鉛資源の安定供給源として重要な役割を果たす。
かつては直営の鉱山鉄道が笹津~猪谷~茂住~鹿間~神岡間などで運行されていた。
 だが、国鉄が神岡鉄道(猪谷~神岡)を開業させた1966年頃から事情が変わってくる。
神通川下流部の富山県婦中町などの農村でイタイイタイ病被害が深刻になり
患者団体が三井金属鉱業株式会社を相手取り集団提訴していた。
1971年に患者側勝訴の判決が出て、カドミウムの処理に巨額の資金を投じなければならなくなる。


明治時代初期、神岡の鉱山採掘は未だ零細な山師がそれぞれ
数坑を持ち行うといった形態であったが、
その後三井組が次々にそれらの山師から坑を買収して行き
ついに1886年(明治19年)には和佐保すべてを
ついで1889年(明治22年)には茂住のすべてを手に入れ
これをもって神岡鉱山全山が三井の所有となったのである。
以来三井は神岡鉱山に多くの資本を投入して最先端の技術による
大規模な採掘を行うところとなるが、のちにはカドミウムが
高原川から下流の神通川に流入し、イタイイタイ病を発生させることとなった。



☆wikipedeaより追加
神岡鉱山の採掘及び精錬加工によって、鉱山町としての神岡町は隆盛と衰退を共にした。
鉱山最盛期である1950年代後半~1960年代前半は
町民が2万7,000人以上にふくれあがったが
鉱山の合理化、及び、採掘中止に伴い転出が続き
現在は1万1,000人ほどまで減少している。
ちなみに、神岡町にある神岡城は昭和45年に三井金属鉱業(株)
神岡鉱業所創業100周年記念として建設されたもので
現在も神岡鉱山の施設・鉱石などが展示、紹介されている。
町の各所には、鉱員住宅や集会場、共同浴場などが点在しており
鉱山マニアや廃墟マニアを惹きつけている。





ニュートリノは歴史的に見てごく最近見つかったような気がしていたのですが
実は歴史は古いものでした。というよりほとんど何も知らない我々人間が
本当に長い年月をかけて宇宙のかけらを知っていく過程であるということでしょう。



ニュートリノの歴史

「1930年ニュートリノが考え出される」
オーストリアの物理学者パウリは放射性元素の研究をしていた。

原子核が出す放射線(ベータ線)のエネルギー分布を研究しているとき
パウリはエネルギーがどこかへ消えてしまうことをどう説明すべきか悩む。

そして「電気を帯びていなくて、知らないうちにどこかへ飛び出してしまう
幽霊のような粒子があると考えるとつじつまが合う」と考えついた。
このとき、パウリはこの粒子を「ニュートロン」と呼んでいましたが
これが今日のニュートリノだったのです。
ニュートリノは本物が発見される前に、科学者の頭の中で生まれた。


「1933年ニュートリノに名前が付く」
イタリアの物理学者フェルミは
パウリの考えた粒子について研究しベータ崩壊の理論を構築していました。
1932年に現在のニュートロン(中性子)が発見されていましたので
幽霊粒子のほうを「ニュートリノ」と名づけ直しました。
「ニュートラル」は中性、つまり電気を帯びていないという意味
「イノ」はイタリア語で小さいという意味です。

「1956年初めてニュートリノが発見される。」
アメリカの物理学者ライネスらは原子炉から生まれる
ニュートリノを捕まえることに成功しました。
命名から20年以上経って、やっとニュートリノは発見されたのです。

「1970年代太陽からのニュートリノを観測」
1969年からアメリカの物理学者デイビスが太陽ニュートリノの観測を開始しました。
長年実験を重ねた結果、ニュートリノは理論からの予想の1/3程度しか
発見されませんでした。このことは、「太陽ニュートリノ問題」と呼ばれ、
その後約30年間にわたる物理学上の大問題となりました。

「1987年超新星爆発からのニュートリノを観測。」
1987年1月、カミオカンデグループが太陽ニュートリノの観測を開始。
そのわずか1ヶ月後、16万光年彼方の超新星1987Aからやって来たニュートリノを捕まえました。
ここから「ニュートリノ天文学」という新しい学問が始まったのです。

「1989年太陽から来るニュートリノが足りない」
カミオカンデグループが太陽ニュートリノの観測を2年間続け
その数が理論より少ないことを発表しました。
デイビスとカミオカンデの2つの観測で同じ結果がでたので
太陽ニュートリノの研究がより活発に行われるようになりました。

「大気からのニュートリノの成分比がおかしい」

同じ頃、カミオカンデグループは観測を続けていた大気ニュートリノのデータを調べ
電子ニュートリノとミューニュートリノからなる成分比が理論の予想と違っている事を発見しました。
このことは、後のニュートリノの重さの発見へとつながる重要な結果でした。

「1996年スーパーカミオカンデが完成」
4年以上の歳月をかけて、世界最大、世界最高精度のニュートリノ観測装置
「スーパーカミオカンデ」が完成しました。
そしてニュートリノ研究の新世代が始まったのです。

「ニュートリノには重さがあることを発見」
スーパーカミオカンデグループは、ニュートリノに重さがある、ということを世界で初めて、発見しました。
それは、素粒子物理学上の基本的な理論の見直しを迫る、たいへん重要な発見でした。

パウリの予言から70年余り、ニュートリノのことは少しずつ解明されてきています。
これからもスーパーカミオカンデはニュートリノの謎を解明していきます。

http://www-sk.icrr.u-tokyo.ac.jp/sk/index.html
公式ホームページより。





2001年11月に起きた光センサー破壊の事故について
http://www.kek.jp/newskek/2002/janfeb/k2k.htmlより

当時、スーパーカミオカンデ実験装置は
7月中旬から行なっていた故障した光電子増倍管の交換を無事に終え、
実験再開に備えて水を8割程度まで満たしたところでした。


水中カメラの映像はさらに衝撃的であり20インチ光電子増倍管の
巨大な電極がまるで押し潰されたようにひしゃげ、
架構から飛び出し垂れ下がっていました。
底面付近では粉々になったガラスが降り積もり光電子増倍管の残骸が散乱していました。
この時の研究者によると、テレビで見た
ニューヨーク貿易センターの残骸の情景を思い出したとのことです。
光電子増倍管が壊れた時の衝撃はすさまじく、
後にわかったことによると装置から8.8km離れた京都大学防災研究所の
地震計が事故を捉えていたということです。


(1)最初の光電子増倍管はなぜ割れたのか?
(2)破壊の連鎖はどのようにして起きたか? またそれは再現可能か?

等々。

まずはこれらの問題を一つ一つ解決するためのテストが行なわれてきました。
現在、(1)、(2)の究明はほぼ終り、事故原因の全容が明らかになりました。
予想通り、1本の光電子増倍管がまず破壊されて衝撃波が発生し、
その衝撃波がとなりの光電子増倍管を破壊しました。
そこでまた衝撃波が発生するという、連鎖反応が起ったのです。

それではなぜ最初の光電子増倍管が壊れたかというと、
装置底面の改修作業時のいずれかの時点で

目に見えないストレスがガラスにかかり、そのストレスがそのまま残って

水圧に耐えきれずに破壊に至った、という可能性がもっとも高いことが分かりました。



光電子増倍管の連鎖的な破損は以下のようなプロセスで起ったと考えられます。

光電子増倍管は大きな電球のようなガラス球であり、
ガラス管の内部は真空になっています。

最初の光電子増倍管が交換作業の際に受けた
ストレスなどの原因により
一瞬にして水圧により破壊され、そのために衝撃波が発生し、
次々と隣の光電子増倍管を連鎖的に破壊しました。





ニュートリノとは?

ニュートリノ (Neutrino) は、素粒子のうちの中性レプトンの名称。
中性微子とも書く。電子ニュートリノ・ミューニュートリノ・タウニュートリノの3種類
もしくはそれぞれの反粒子をあわせた6種類あると考えられている。

性質
ニュートリノは電荷を持たず、のスピンを持つ。
また質量は非常に小さいが存在することが確認された。
ニュートリノには電子ニュートリノ (νe)、ミューニュートリノ (νμ)、タウニュートリノ (ντ) の3世代
とそれぞれの反粒子が存在する。 これらは電子、ミュー粒子、タウ粒子と対をなしている



質量
例えば光子は質量が 0 である理論的根拠が存在するが、
ニュートリノについては質量が有限値を持ってもかまわない。
が、この粒子は弱い相互作用しかしないこともあってその質量が観測できず、
質量を持たないとするのが一般的であった。

ニュートリノが質量を持つとするといくつかの現象が予測されるが、
その中に量子状態の混在がありえるためニュートリノが
電子・ミュー・タウの型の間で変化するニュートリノ振動とよばれる現象があった。

この現象について、1998年6月にスーパーカミオカンデ共同実験グループは、
宇宙線が大気と衝突する際に発生する大気ニュートリノの観測から、
ニュートリノ振動の証拠を99%の確度で確認した。
また、2001年には、太陽からくる太陽ニュートリノの観察からも強い証拠を得た。

ただし、ニュートリノ振動からは型の異なるニュートリノの質量差が測定されるのみで、
質量の値は解らない。が、これに先立つ超新星SN 1987Aからの電子ニュートリノの観測時刻が
光学観測との間で理論的に有意な差を観測できなかったことから、
きわめて小さな上限値が得られており、共同研究チームは3種のニュートリノの質量を発表している。

その後、つくば市にある高エネルギー加速器研究機構 (KEK) から
スーパーカミオカンデに向かってニュートリノを発射するK2Kの実験において、
ニュートリノの存在確率が変動している状態を直接的に確認し、2004年、質量があることを確実なものとした。






2008年8月に来年の夏からカミオカンデで暗黒物質の研究を開始と
発表がありました。


毎日新聞のニュース

>暗黒物質の検出器「XMASS」(直径約80センチ、約5億円)をタンクの中に沈める。

Wikipediaより
>暗黒物質(あんこくぶっしつ、dark matter)とは、
宇宙にある星間物質のうち自力で光っていないか光を反射しないために
光学的には観測できない物質のことである。





スーパーカミオカンデは東京大学宇宙線研究所神岡宇宙素粒子研究施設を中心に
日本、米国、韓国、中国、ポーランドからの32の大学、研究機関との共同研究で行われている。




続く・・・


神岡は特別な所だと感じる。


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